中世東大寺文書と往来軸
収蔵品
写真の資料は、当館が所蔵している「中世東大寺文書」と「往来軸」で、資料の記載内容等から、かつて東大寺が所蔵していた文書群のうちの一つと考えられています。
この資料は、当初、往来軸に東大寺文書が巻かれたままの状態で保存されていたため、劣化部分が癒着を起こして開かず、内容が確認できない状態になっていました。しかし、平成二十一年(二〇〇九)年度に保存修理を行ったことで、いくつかのことが判明したので、それをご紹介いたします。
文書は、「謹解 申売買田之内壱段沽却了」で始まります。文中の「解」は、古代の上申文書中で用いられる書式であったことから、売買が申請行為であったことの名残と考えられます。そして、紙裏面の継目には花押があり、抜き取りを防ぐような処置がされていることから、権利の継承関係を証明する複数の文書を貼り継いだ「連券」と呼ばれる形式であると考えられます。
内容は、天永元(一一一〇)年に「僧賢算」から「紀乙先生」に「東大寺川上御庄」を売却する旨を記したものです。ちなみに、川上庄は大和国添上郡に所在した東大寺領荘園の一つで、現在の奈良市北部に「川上町」の名が残されています。
往来軸は、「題箋軸」とも呼ばれ、巻子の軸の上部に見出しとして文書の表題や日付を書き込めるような題箋を付したものです。題箋部分は、平たい板状のものと四面に記載が可能な駒形のものがあります。当館が所蔵しているのは、後者で、「大和国添」「上郡カウ殿」「壱町寄進」「状宇都宮入道」という文字が記されています。この記載の中にある「宇都宮入道」とは、鎌倉幕府の御家人宇都宮頼綱(蓮生)のことで、このことからこの往来軸は鎌倉時代に作成されたことが分かります。したがって、先に紹介した文書とこの往来軸はそれぞれ作成時期が異なることが分かりました。
これらのものがどのようにして当館に収蔵されたかは、現在のところ不明です。しかし、大正六(一九一七)年頃に逓信博物館が刊行した『陳列品目録』の中に「往来軸 一個 田山宗堯氏出品」とあることから、これが同一人物のものかは不明ですが、東京の数寄屋橋で警察関係の書籍などを発行していた警眼社社主の田山氏から、往来関係の資料として入手した可能性が高いと見られています。
右から中世東大寺文書と往来軸
この記事は、「逓信総合博物館 展示品・所蔵品紹介」『通信文化』(8号、通巻1218号、44p、公益財団法人通信文化協会発行、2012年)掲載記事からの転載です