東海道五十三次(保永堂版)
収蔵品
下の図は、「東海道五十三次(保永堂版)」のうち「平塚」です。背景にそびえる丸い形の高麗山には高麗権現をまつる寺があり、この周辺は奈良時代に朝鮮半島から渡来人が移住したところとして知られていました。山の間には小さく富士山が見えています。また、平塚宿のはずれを示す傍示杭などが並ぶあぜ道を飛脚や空の四ッ手駕篭を担いだ人が行き交っています。庶民用で簡素な造りの四ッ手駕篭は、人を乗せていない時、このように一人が抱えて運んでいたのでしょう。ゆっくりと歩いている人とは対照的に、飛脚は先を急いでいるのか鋭い表情で荷物を担いで走っています。当時、江戸・大阪間は、夜通し走り継ぐと三日で到着することができました。
東海道を描いた一連のこの作品は、歌川広重(初代)が描いた数種類の「東海道」の中でも初期の作品であり、最も人気がある作品です。天保四(一八三三)年頃に刊行され、庶民を中心に爆発的な売れ行き有しました。また、同時に広重の出世作となります。
広重は、安藤広重とも歌川広重とも言われますが、安藤は武士としての姓、歌川は画家としての姓です。父の安藤源右衛門は定火消同心で、幕府直参の御家人でした。文化六(一八〇九)年、広重が十三歳の時に家督を継ぎ、その二年後、歌川豊広に入門して浮世絵界に入ります。その後、文政六(一八二三)年に家を子に譲り引退しますが、実質上の引退は天保三(一八三二)年と言われています。
当館は、「東海道五十三次(保永堂版)」の日本橋と京都を含む全五十五枚すべてを所蔵しています。
この記事は、「逓信総合博物館 展示品・所蔵品紹介」『通信文化』(6号、通巻1216号、46p、公益財団法人通信文化協会発行、2012年)掲載記事からの転載です。